うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

川端康成「當用日記」③ (「少年」⑦)

川端康成先生「少年」の記事、7回目です。

「少年」に関連しそうな記述のみを「當用日記」より抜き出しています。今回は③ですので未読の方は①②からご覧下さい。

川端康成「當用日記」② - うみなりブログ。

中学卒業後の大正6年の日記には関係する記載が見当たりませんでしたので、今回は大正7年以降の日記から抜き出していきたいと思いますが、関連する記述は手紙を送受信したことが多めです。でもせっかくですので図書館から借りているうちに写しておきたいと思います。

以下川端先生の日記です。同性愛的記述があります。

7.1.16(水)

小笠原から手紙が来てゐる。この児のことをよく思ふ折から嬉しかつた。

7.1.19(土)

<発信>黒田秀太郎、正野勇次郎、中島彰、小笠原義人。

7.1.20(日)

平松は小笠原と共に中学の友達で最も好きな人である。

※「平松」は改題に中学同級生の平松正雄氏のことだろうとありました。

7.1.21(月)

保志先生がお休みになつたので、ほんとに嬉しかつた。二時間目の鹽(※塩)谷先生もお欠席。図書館に行つて小笠原へ十枚程書いた。

(略)

<発信>山口丈三、小笠原義人。

7.1.23(水)

下駄を盗まれたので私も一つ失敬しやうと思つてみたけれど勇気が出なかつた。死人の家の「最初の印象」をよみ終わつた。アリーに涙した。私の小笠原が思ひ出される。ほんとに純だつた小笠原が限なく私の心によみがへる。

※私の小笠原…。ちなみに下駄は翌日盗んだ模様です。

7.1.24(木)

床で此頃書かうと思つてゐる、今迄の私の周囲に明滅した人々の印象記に就て色々空想してみる。善良な人ばかりのやうな気がする。事実私はすべての人に愛されてゐたに違ひない。又よい方面のみ感じてゐたのなら私のために喜びたい。可愛い小笠原や執着を覚える宮田等がはつきり浮んでくる。

※可愛い小笠原…。宮田のこともまだ忘れてなかったのね。

大正7年はここまで、8年はありませんでしたので、次は9年です。

9.1.9(金)

小笠原に会ひたい思ひ切。明日にも中学に行かうと思ふ。

※あああ、川端先生が癒しを求めてらっしゃる…!行って!早く!小笠原に癒されに!早く中学へGO!と滾りましたが、翌日は風邪を引いたようで中学には結局行かなかった模様です…。あああ、もう!全私が泣きました…。小笠原さんが川端先生の特別な存在であったことがこの短いフレーズの中にこれでもかと言うくらい詰まっていて、本当に好きです。

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9.1.28(水)

紅野真二の死、美少年紅野真二の死。俊子、良子、小笠原なぞにずいぶん手紙を後らしてすまないすまないと毎日思つてる。

※紅野真二は5.7.2で出てきた「学校の紅野といふ美少年」と同一人物ですかね?

9.3.11(木)

竹内より手紙。もとの懐しい室長さん使ひにされるけれど、どうも返事を書きながらも、慕はしい心地がそつくり来ない。先日の手紙で小笠原が怒られたやうに思つてるらしい事のみが気になる。真信(※真実?)が他人に認められないので悲しんでるとか。

9.3.18(木)

小笠原から手紙来る。友達から度々真実を裏切られ、遂に自分全く一人にならうとしてあんな手紙を出したのだが、お返事を拝見してあなたを唯一の友と頼みとするとの文面。いよいよ卒業したとある。

※「少年」に載っている大正九年三月十五日の清野少年からの手紙の日付や内容と合致します。

※この年の知人名簿の末尾に「京都上サガ村空也 義人」とあります。

11.4.4※曜日の記載なし

昨夜とひとしく古き日記出して読む。中学五年の時のもの最も多くあり。昨夜と同じく小笠原を思ふ。当時不純な気持ちもまじれる愛のやうに記しあれど、今の追想を以てすれば純美なり。孤児根性のことしきりに嘆きあり。想ふに小笠原との愛によりて、余が一転機を心に得たるは疑なし。

(略)

中学の友片岡末藤井上欠田清水小笠原山口等と今日心に殆無交渉なる感慨なきを得ず。現下石濱一人の如し。

(略)

人との交情を温むるに酷く怠慢なり。小笠原に手紙書かうと思う。俊子さんに書かうと思ふ。田中氏にも詫びんと思ふ。

※もうこの日記の内容が「少年」の全てを表していると言っても過言ではないと思います。この辺りではもう大分疎遠になっていたようですね。

12.1.6※曜日の記載なし

今日小笠原、俊子より年賀状。小笠原は官幣大社松尾神社に入り、北海氏は新京阪鉄道株式会社に入りしやうなり。

※「少年」では大正11年の手紙が最後の手紙みたいに書いてあったのですが、まだ交流あったー!いつまで手紙のやり取りをしてたんだろう…。小笠原さんは神職に就いていたのですね。

とりあえず大正13年までの日記からひたすら「小笠原」の名前を拾っていった結果は以上です。この本では大正13年からいきなり昭和19年に飛んでいましたので、さすがに昭和19年の日記には名前は発見出来ませんでした。残念。

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