川端康成先生「少年」13回目の記事となります。こんなおばさんをここまで夢中にさせるなんて、清野少年も本当に罪作りな子ですよね…「子」って言っても私が産まれる前に80歳くらいで亡くなっている故人なんですけどね…。ということは、私はおじいさんをずっとずっと少年呼ばわりしていることになるのですか…。
前回のあらすじ:清野少年について書かれている論文を取り寄せたら想像以上にマニアックで、専門家の力を思い知りました。
ところで私はアラフォーなんですけど、先程腐女子になって四半世紀が経過していることに気づき、愕然としました。四半世紀!四半世紀…⁉︎ BL文学の話題が大半を占めているこんなヤバいブログを開設してしまった時点で開き直ってとことんまで進むしかないのですが、四半世紀と言う言葉の重みに動揺を隠しきれません。
そういや10年くらい前にも元腐女子の友人に「まだ足洗ってなかったの⁉︎」と驚愕された思い出があります。足を洗うどころか、この10年間で更に悪化しています。
さて、論文の話に戻りましょう。
既読の方は「少年」内で清野少年が川端先生に宛てた手紙の中に
詳しいことを知りたいやうでしたら、東京本郷四丁目有明館といふ店で、「神霊界」といふ本をお求め下さい。二月号には私の家のことものつてをります。
と書かれていたことを覚えておいででしょうか。
今回の論文では、実際にこの「神霊界」の内容が掲載されています。
いや、大正7年の雑誌(しかもかなりマニアックな奴)ですよ…?
「少年」にどハマりして色々読み漁っていますが(主に川端先生の恥ずかしい日記)、「神霊界」まではさすがに探そうとは思いませんでした。いや、一般人(しかもただの腐女子)と専門家の方を比べるのがそもそも間違ってはいるのですが、こういうものまで探し出して論文にする専門家の方って本当にすごいです。
しかも林武志先生「川端康成研究」でもう調べられた事柄だったそうなのですが、他の部分も読むとより詳細な入信経緯が分かるらしいのです。
結論から申しますと、清野少年のお父さん・小笠原義之さんが大本教の教えを受けたのは大正6年12月らしいです。川端先生が中学を卒業したのが大正6年3月ですので、二人が寄宿舎で一緒に過ごしていた時期には清野少年はまだ大本教に帰依していなかったことになります。
元々小笠原家は明治末頃から神道に帰依していたみたいで、清野少年が川端先生の解熱を祈祷して川端先生ともう一人をドン引きさせた謎イベントの謎呪文「リリシャシャ」は、大本教とは別の神道のものだったようです。
川端先生は中学卒業後に大本教をガッツリ信仰している清野少年に会った時の印象から、清野少年は中学在学時にも大本教を信仰していたと思い込んで「少年」に書いたと思われます。
というようなことが分かる論文でございました。(ずっと論文論文と書いてましたが、タイトル前には「資料紹介」と書かれていましたので、正確には論文とはちょっと違うみたいです。)
さて、今回こちらを取り寄せるのに掛かった実費ですが、コピー代50円+振込手数料110円でした。振込手数料のが高い…。
今回はマニアックな事柄が知れて、公共図書館でも学術論文が取り寄せられることが分かって、とても良い経験となりました。
これでいつでも論文が取り寄せられます!今後も取り寄せたい論文があるかどうかは分からないけれども!
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