うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

川端・清野が疎遠になった原因①(川端康成「少年」⑯)

恒例の川端康成先生「少年」ネタです。

⑯⁈

これで本当に単純計算で半月以上に渡って清野少年について語り続けたことになるぞ!やったー😇

 

今回は「何故川端先生は清野少年と疎遠になったのか?」について真剣に考えてみたいと思います。

前回の記事↓

大口の本名(川端康成「少年」関連) - うみなりブログ。

「少年」関連未読の方↓

川端康成「少年」① - うみなりブログ。

以下、BL・同性愛の話題です。お気をつけ下さい。

「少年」を読むと最後に清野少年から川端先生へ宛てられた手紙が沢山載っており、どんどん二人が疎遠になっていく様を見せつけられます。

超切ないです。

川端先生にとって清野少年(のモデルである小笠原義人さん。とりあえず、ややこしいので今回は「清野少年」で統一します)は自分の孤児根性を埋めてくれた特別な存在で、当時の思い出はかけがえのないものであり、だからこそ50歳になった時に「少年」という作品を書いたんだろう、書きたくなるくらいやはり清野少年は別格なんだろう、と個人的な願望も含めて勝手に思っています。

でもそんな特別な存在であった清野少年と何故疎遠になったのかは全く語られていません。

自然消滅と言えばそこまでなのですが、そんな特別な存在と自然消滅…?とちょっと疑問符が湧きました。

そこで、ここまで「少年」について色々読んだり考え続けてきた私なりに、いくつかその原因を挙げてみたいと思います。

川端康成「少年」② - うみなりブログ。

↑でも疎遠になった原因についてちらっと語りましたが、この記事を書いた時より大分色々読み込みましたので、改めて深く掘り下げたいと思います。

まず、疎遠になった時期です。

大正6年3月に川端先生が中学を卒業した後、日記に小笠原の名前がそれなりに登場するのは大正9年までです。大正10年からはほとんど見られなくなってしまっています。

2人が最後に会ったのも大正9年の夏ですので大正10年から疎遠になってしまったと考えて良いと思います。

疎遠になったものの一応手紙のやり取りは続けられていて、「少年」内では大正11年の清野少年の手紙が一番最後とされていましたが、私が調べた範囲では、大正12年1月に清野少年から年賀状を受け取ったのが一番最後です。

それ以降は、その年賀状に返事を書いたかさえ不明です。川端日記は抜けているところがものすごく多いので、とりあえず現時点で「川端康成全集 補巻一」(新潮社、1999年版)で確認できる範囲内で言っています。抜けてる川端日記、出版されないかな〜|*・ω・)チラッ

・・・

さて、疎遠になった原因として

①距離が遠くなった。

②多忙になった。

③手紙のやり取りも出来ない時期があった。

④新たな交友関係が楽し過ぎた。

⑤清野少年が変わってしまった。

といったものが考えられますが、順番に見ていきましょう。

①距離が遠くなった。

川端先生は中学卒業後、大阪から東京に上京しています。普通に現在でも遠いですよね。ましてや大正時代なら頻繁に会えるような距離ではないはずです。夏や冬には大阪の親戚の家に帰省していたようですが、清野少年と会っていたのは年一くらいのペースだったようです。

手紙は頻繁にやり取りしていたようですが、実際に会えるのと手紙でしか交流がないのとでは全然違いますよね…。

そして、川端先生は間違いなく手紙魔です。清野少年以外の中学関係者とも沢山文通しています。悲しい事実ですが、中学卒業後は清野少年も「文通相手の一人」にしか過ぎないのです。

②多忙になった。

川端先生が多忙になったと考えられます。学業だったり、創作活動だったり、私生活だったり。

大正8年にはその後に婚約して破局する女性にも出会っていますので、そりゃもう色んな意味で私生活が忙しかったでしょう。

大正9年3月には清野少年も中学を卒業しているので、清野少年の方でも多忙になった可能性があります。

なので、日記にそれなりに名前が出て来るのが大正9年までなのかもしれないです。

③手紙のやり取りも出来ない時期があった。

大正10年に清野少年は1年兵役に行っています。その時期には手紙もやり取りしていない模様です。

これだ!大正10年から疎遠になっている直接的な原因!

そして大正10年と言や、あなた…、②に書いた女性と婚約して破局した年ですYO…。その時期に手紙すらやり取り出来なかった…。もしやり取り出来たとして傷心を書いて送ったか、会える状況であったとして会いに行ったかどうかは分かりません。

しかし前年の大正9年には

小笠原に会ひたい思い切。明日にも中学に行かうと思ふ。(大正9年1月9日の日記)

と日記に書くレベルで会いたくなってはいるのですよ。会える状況であれば傷心を癒す為に実際に会いに行っていたかもしれませんね。

傷心を癒したいタイミングで会うことも手紙を書くことも出来なかった…これは何か割と2人の関係を考える上で決定的な出来事な気がします。

・・・

サラッと書くつもりがどんどん長くなってる…。゚(゚´Д`゚)゚。もーやだー。゚(゚´Д`゚)゚。

自分も読み返す気がなくなるので、個人的に一つの記事の文字数が長くなり過ぎるのが嫌です…orz

まだまだまだまだ続きますので、④以降はとりあえず次回に持ち越します…orz

川端・清野が疎遠になった原因②(川端康成「少年」⑰) - うみなりブログ。

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