(私にとって)謎多き雑誌、第六次『新思潮』の謎に迫ってみました。
何が謎かというと、川端康成先生以外の要素全てです。
川端先生や「新感覚派」周辺を調べている方にとっては周知の事実かもしれませんが、第六次『新思潮』に焦点を絞って分かりやすく纏めているネット記事や本が見つかりませんでしたので、今回は調べて分かった事項を一応自分の備忘録として纏めておきたいと思います。
『新思潮』に掲載していた作家としては谷崎潤一郎先生(第二次)や芥川龍之介先生(第三、四次)が有名ですが、今回私が語りたいのは第六次のことで、『新思潮』全般については詳しくない為とりあえずWikipediaのリンクを貼っておきます。
第六次『新思潮』は、大正10(1921)年2月に川端康成先生らが発刊した同人雑誌です。
初期メンバーは石濱金作、川端康成、今東光、酒井眞人、鈴木彦次郎(最初は彦二郎)の5人です。今東光先生以外は帝大の学生でした。
そのあたりまでは川端康成先生を調べていたら直ぐに出てくるのですが、…まぁ〜謎が多い。
基本的に川端先生に関連する事項しか出て来ません。全部で何号発刊されたのか、いつ刊行が終了したのかすらよく分かりません。
とりあえず私の長期目標として「BL文学と清野少年の布教」に加えて、「第六次『新思潮』初期メンバーの箱推し」が増えました(何故…)ので、ちょっとずつ調べています。
とりあえず現存する全ての号の目次・奥付と石濱作品のコピーをちょっとずつ取り寄せています。
↑川端が居ない『新思潮』なんて…!と言われるまでにはまだなっていない頃です。
川端康成先生のエピソードは調べたら大量に出てきます。
今東光先生も晩年まで活躍しているので色々出てきます。
鈴木彦次郎先生もちょっと出てきます。
問題は石濱金作先生と酒井眞人先生です。
川端先生と一緒に第六次『新思潮』を発刊したことしか基本的に出て来ません。
石濱先生は執念を持って調べまくっていますので、少しずつ色々分かってきました。(ブログカテゴリーの「石濱金作」をご覧下さい。)
酒井先生に至ってはWikipediaも無く、実は名前の正しい読みすら分からない状態です。調べたら「さかい・まさと」と「さかい・まひと」が出てきました。どっちですか…。
当時のカフェが発行した厄介客番付の関脇になっていたりとなかなか面白そうな人なんですが、とりあえず石濱先生を調べるのに手一杯で酒井先生にまで手が回りません。
(私の)石濱先生ブームが落ち着いたら、次は酒井先生についてちょっとずつ調べていきたいなぁとかぼんやり考えています。
「メンバーの中で一人孤立していた」とか「後に『文藝時代』を発刊する際に酒井をメンバーに入れることを嫌がるメンバーが居た」みたいに書かれているものも見かけましたが、詳細は不明です。とりあえず帝大メンバーの中で彼一人だけ真面目に授業に出ていたらしいです。あと、頑なに酒井宅には招待してくれなかったらしいです。
発刊の経緯が鈴木彦次郎先生の「『新思潮』時代の川端康成」(『歴史と人物』中央公論社、1972年7月号)に詳しく書かれていましたので簡単に纏めます。
大正9年早春に今東光と他4人が出会い、しょっちゅう今東光宅に集まっている内に、とりあえず同人雑誌を作りたくなる。
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酔っ払った石濱が「僕達、同人雑誌を作りますのでよろしくお願いします!」と芥川先生達に宣言。
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菊池寛先生「無名の新しい雑誌を作ってもなかなか読んで貰えないと思うよ。」と冷静なツッコミ。「僕は『新思潮』の譲渡権を持っているから、君たちに譲ろうか?」
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大喜びで早速翌日川端・石濱・鈴木の3人が菊池家を訪ねる。
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※帝大生でない今東光を入れることを突っ込まれる。(第五次『新思潮』に帝大生でない中戸川吉ニ先生を入れた所、結局中戸川先生しか新進作家として名前が残らずに自然消滅してしまったらしく同じ轍を踏まないかという心配から)
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川端「全員が新進作家としてデビューできるまで続けます」
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無事『新思潮』の名称を譲ってもらうことに成功。
(ちなみにこの後菊池家で花札をして帰ってきたらしいです(石濱金作「川端君の若い頃」参照)。ほぼ初対面なのにそこまで打ち解けているのが色々すごい。)
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『新思潮』として発刊することは決まったけど、お金が無くて印刷出来ない。
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酒井が何処からか百円札を入手してくる。これに他の同人の所持金もプラス。
(※当時の百円がどれくらいの価値だったのか調べましたが、現代の530〜5000倍くらいの価値だったという書いてあるサイトによって幅が大きい検索結果しか得られませんでした…。530倍なら5万3000円くらい、5000倍なら50万くらいということになりますな…。ちなみに大正7年の公務員の初任給は70円くらいらしいです。)
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大正10年2月に創刊号を発刊。
という経緯らしいです。
今東光先生は※の所で
菊池「帝大生でもない今東光みたいな不良を入れるのは反対だ。」
川端「今東光を入れられないのなら雑誌を出すのを止めます。」
菊池「そこまで言うなら仕方ない。」
みたいなやり取りがあったと回想に書いているみたいですが、今東光先生はこの時には菊池家を訪ねておらず、実際には先に書いたようなやり取りであったと鈴木彦次郎先生は書いておられます。
そのような経緯で大正10年2月に発刊された第六次『新思潮』ですが、大正11年3月に5冊目が出た所で一度休刊のような形になります。
1年以上経った大正12年7月に編集と発行所を変えて、執筆メンバーを沢山増やした状態で再度刊行され、少なくとも2号出ています。
その後、大正13年1月に雑誌ではなくパンフレットのような形で刊行されて大正13年春頃まで続いた、というのが把握している大まかな経緯です。
長くなりそうなので、続きは次回書きます。
次は把握している第六次『新思潮』の全目次を書きたいと思います。
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