うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

清野少年のその後(川端康成「少年」㉓)

「少年」㉓です。

「清野少年は「少年」の後にどうなってしまったの…」「清野少年が幸せになれたか心配だ…」という声を聞きましたので、今日は清野少年のその後について詳しく書きたいと思います。

 

全ての始まり↓

川端康成「少年」① - うみなりブログ。

前回の記事↓

昭和26年・目黒書店版「少年」(川端康成「少年」㉒) - うみなりブログ。

 

そろそろ(リンクを貼るのが地味に面倒くさいので)、「少年」関連のみでインデックス作ってブログのトップに貼り付けたいと思います…。(①まで遡るのが特に面倒くさい。)

 

BL・同性愛を題材とした作品の話題です。以下、お気をつけ下さい。

 

 

清野少年のモデル・小笠原義人さんには林武志先生が直接インタビューをし「川端康成研究」(桜楓社、1976年)の「『伊豆の踊子』成立考」に詳しく纏められていますが、小笠原さんの経歴についてもバッチリ書かれていましたので簡単に抜き出してみたいと思います。

(※「『伊豆の踊子』成立考」については以前こちらでも触れたことがあります。↓

川端康成「少年」の清野少年の写真 (川端康成「少年」⑩) - うみなりブログ。)

 

明治33年11月11日 播州姫路城下威徳寺町で生誕。五男三女の長男。

明治41年4月 神戸入江尋常小学校に入学。

明治42年4月 広島市荒神町尋常小学校第三学年に転入。

大正2年 同校の六年を卒業。

大正2年4月 広島東高等小学校に入学。

大正3年 同校1年を修了。

大正3年4月 茨木中学に入学。(※1)

大正4年10月 家庭の事情及び病気の為、休学し父の居た西宮へ行く。

大正5年 茨木中学の第二学年に復学。

大正6年12月 父が大本教に入信。(※2)

大正9年3月 茨木中学を卒業。

大正9年12月1日 一年志願兵合格で野砲二十二連隊に入隊。(※6…第十六師団、福知山)

大正10年11月  終末試験合格で任砲兵軍曹、引き続き召集され任砲兵曹長、同時に予備役見習士官となり士官教育を受ける。(※6…大正10年12月1日付で予備役との記載あり。)

大正11年3月  召集解除。

この後、父と共に大本教から離れる。

大正11年11月 官幣大社松尾神社神官となる。(※4)

大正13年1月 国務大臣依託による依託学生として国学院大学皇典講究所に入学、高等神職の資格を得る。

大正13年3月31日  任陸軍砲兵少尉。

大正13年6月  叙正八位。

大正15年7月 父死亡。

昭和3年4月1日    後備役陸軍砲兵少尉。(※6)

昭和3年11月頃? 「昭和大礼京都府記録 下巻 地方饗饌賜饌者名簿」に名前あり。(※8)

昭和14年4月1日 後備役陸軍砲兵少尉退役。(※7)

昭和29年 神道大教大和協会の主管者。(※5)

昭和55年 死亡。(※3)

 

(※1)…父が関西に居た為、大阪近辺の中学ならということで進学を許された。広島から単身上阪し、姉の嫁ぎ先である茨木町北外之町から通学。

 

(※2)…片山倫太郎先生「川端康成の茨木中学後輩・小笠原義人に係る資料二点 (特集 近代)」(『解釈』解釈学会、2012-58)より。

 

(※3)…林武志先生編「鑑賞日本現代文学15 川端康成」(角川書店、1982)より。(2022.10.4追記)

 

(※4)…「職員録 大正15年7月1日現在」(内閣印刷局、1926)の「官幣大社松尾神社」の部分に「主典 九 正八 小笠原義人」と名前が見られるので、少なくとも松尾神社には大正15年7月までは所属しているようです。(2023.1.14追記)

 

(※5)…「宗教家名鑑昭和29年版」(日本宗教時報社、1954年2版)より。(2023.1.14追記)

 

(※6)…「陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿 昭和3年4月1日調」(偕行社、1928年)より。(2023.12.2追記)

 

(※7)…「官報 1939年6月22日」より。(2023.12.2追記)

 

(※8)…「昭和大礼京都府記録 下巻」(京都府、1929)より。肩書きは「陸軍砲兵少尉」。(2023.12.2追記)

 

以上、簡単に抜き出しました。

はっきり年月が書かれている経歴はここまでです。

 

すみません、私の書き方が下手くそなせいで最終的に軍人になったように見えるかもしれませんがそういう訳ではなく、大正13年1月の経歴の後に

のち、元神祇官統領白川神祇伯王家に伝わる神事伝法十礼神法御法の体得に熱中などする。神職のサラリーマン化に厭気がさし、神を求めて彷徨したが、結局白川家所伝の惟神道修行をなし、のち迷うことなく今日に至る。

と書かれています。

すみません、宗教には全く詳しくないので私には小笠原さんが具体的に何をされていたのかがよく分からないです…。

一生を神職として歩まれているということで間違いないと思いますが、最終的にご自宅に神社まで建立されたそうです(え⁈)。

ちなみに小笠原さんのお父さんも神社を建立されているそうなので(※)、小笠原家は親子二代に渡って神社を建立していることになります。

(※こちらも片山倫太郎先生「川端康成の茨木中学後輩・小笠原義人に係る資料二点 (特集 近代)」(『解釈』解釈学会、2012-58)からの情報です。)

 

 

「『伊豆の踊子』成立考」には勿論もっと経歴などが詳細に書かれていて、口絵には小笠原さんのお写真も載っています。(集合写真も載っていますが、小泉と杉山と大口のモデルも一緒に写っています。)

「少年」と清野少年に関する考察も素晴らしかったので、ご興味のある方は林武志先生の「川端康成研究」(桜楓社、1976年)を是非お手に取ってみて下さい。

 

小笠原さんの亡くなった年は分かりませんが、こちらの本が発行された1976年1月にはまだご存命です。

→(2022.10.4追記)林武志先生編「鑑賞日本現代文学15 川端康成」(角川書店、1982)によると、昭和55年に亡くなったそうです。

 

あと、「少年」に掲載されている清野少年からの手紙は大正11年10月が最後ですが、川端日記を見ると大正12年1月に松尾神社に就職したという内容の年賀状を送っていることまでは確認できます。

この辺りが本当に二人の交流の最後なのかはこちらの本には書かれていませんでしたので、未公開の川端日記等が公開されない限りは謎です。

 

また、何で川端先生との交流が無くなったとかその辺りも書かれていなかったです。

林先生が小笠原さんにどの辺りまでインタビューされたのかが気になりまくりですが、1976年から続報がない所を見ると聴取していないのか公開出来ないような内容だったのでしょうか…。

 

とりあえず、小笠原さんは長生きをして生涯を信仰に捧げていたことが分かりました。

(「少年」では清野少年=大本教というイメージでしたが、大本教に入信していた時期は意外に短いことがわかりました。大正6年大正11年の間だけです。)

「少年」の清野少年のイメージにピッタリの人生だなぁと思います。

ご本人にとって幸せな人生だったことを願うばかりです。

 

 

 

今回はこの辺りで〆たいと思います。

 

さてさて、「少年」ネタはまだありますので(あるんです…)、次は㉔にお付き合い下さいましたら幸いです。

実は「少年」の舞台の学校の百年史を入手しました(入手してしまったんです…)ので、それについてもそのうち語りたいと思っています。

 

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