川端康成先生「少年」ネタ㉖回目です。
今日は「少年」内の登場人物、垣内について語りたいと思います。
垣内は本名が宮田正一ですので、川端日記では宮田と書かれていますが、ここでは引用以外の部分では垣内で統一して語りたいと思います。
以前のナンバリングはこちらから↓
BL、同性愛の話題です。以下お気をつけ下さい。
とりあえず垣内って誰?という方は「少年」文庫のp28〜川端先生が一高に提出したヤバい作文の辺りをご覧ください。
こちらの相関図では③の人物です。
とりあえず簡単に紹介すると、
・中学の寄宿舎の室員です。
・清野少年と同級生の二年生(川端先生は五年生)です。
茨木中学出身の有名人に大宅壮一先生がいらっしゃるのですが、大宅先生は川端先生の三学年下らしいので、清野少年・垣内と同級生だったと思われます。
・「一年落第した」とあるので、学年は三学年下ですが、年齢は二つ下になると思います。清野少年は色々あって(→こちら参照)川端先生より一つ年下ですので、「少年」の当時には川端19歳、清野18歳、垣内17歳になると思われます。
・「少年」③の登場人物紹介で美少年と書きましたが、作中では美少年とは断言されていません。すみません。が、女性的に艶冶で、肌が美しい(美顔水とかも使っている)少年です。
・その為、川端先生が前年度から風呂で目を付けていました。
・大正5年の一学期の終わりに寄宿舎で先輩達からしばかれた為、二学期を迎える前に中学を退学してしまいます。
つーか、風呂で目を付けていたという辺りが色々ヤバくてとても良いな…と思うのは私だけでしょうか。
風呂で目を付けていたことがはっきり分かる部分はこちらですね。↓
女性的に艶冶な、常に浴場であこがれてゐた、垣内を僕の室に迎へ入れた喜びは淡いながらはつきりしたものだつた。
(「少年」)
宮田は比較的無事で可成りの用もしてくれるし、膚理の美しいのは前から風呂場で嘆文していた。
(T5.4.11)
また、多分この宮田と同一人物だと思いますが、
私が理想の一室員の内に片岡君井上君森田君宮田君を取つたのである
(T4.3.26)
という記載もありますね。
(井上は大口のモデルだと思われる井上保次郎氏です。後で嫌っていますが、同室になる前なのでこんな風に書かれています。)
作文は出だしの「お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。僕はお前を恋してゐた。お前も僕を恋してゐたと言つてよい。」の有名なフレーズがヤバいので、出だしで全て持っていかれそうになりますが、よく読んでいただくと上に引用した「垣内を僕の室に迎へ入れた喜びは淡いながらはつきりしたものだつた。」の箇所を含めて、垣内に対しての思慕が書かれています。
垣内は「少年」内では前半に出てくる作文にしか書かれておらず後半の日記などには登場しない為、サラッと読むと後半の印象が強すぎて川端先生は清野少年と終始イチャコラしていたような印象を持っていらっしゃる方も居るかもしれませんが、川端先生の垣内に対する思慕は割とガチだった模様です。
清野少年との関係が始まるのは11月からなので、二学期が始まる前に垣内が居なくなってから初めて「少年」のストーリーが始まる訳です。
以前に「當用日記」① 「當用日記」② でバラバラに語りましたが、大正5年7月までの日記の室員に関する記載は垣内について語られている率が非常に高くなっており、清野少年よりも垣内の方が沢山登場しています。
どのように登場しているかを簡潔に書くと、分かりやすくめちゃくちゃムラムラしていた対象でございます。
_人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 垣内の尻が気になって眠れません <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
中学を去った垣内に手紙を書いた旨が作文内に
夏休み前、あんなひどい目にあはされた垣内に、休みで別れてゐると僕の同情、そして官能的な愛着はなほつのり、長い手紙を幾度も書いた。九月にはまた僕の室員として帰るやうに言つてやつたのだが、垣内はそれきり学校を止めた。
(「少年」)
と言う感じで記載されていますが、垣内への手紙の草稿のようなものが「川端康成全集 補巻一」(新潮社、1984年)に掲載されていますのでちょっと抜き出してみたいと思います。
小さい者に
真実愛すべき室員の宮田
帰省の今晩早速書く 室長の言葉を長くとも真実にきいてくれるだらうね 私はお前を愛すべき者と知る故にお前の幸福を祈る心から書くのだ
(中略)
私としては一学期も一緒に来たのだもの去つてもらいたくない 後二学期を一緒にゐたいのは勿論の事だ
(中略)
矢張りお前を来学期も室員として迎へたいのだけれどお前の幸福を思へばそうも云はれない
(中略)
恋しい思で筆とつたのだから乱れてゐるかも知れないから真意のある所をよく汲んでね 来学期になつたら舎に帰るにしろ帰らぬにしろ小さい私を忘れてくれるな
(「大正五年 ノート ニ」)
こんな感じの文章が、上下二段組で4ページに渡って綴られています。
長いよ…!?
川端先生は手紙魔だったみたいなので長い手紙はデフォルトだったのかも知れませんが、思いの丈がこれでもかと感じられます。
7月19日夜に先輩達から制裁を受け、その翌日に垣内は帰省しますが、7月22日の日記にその時のことが書かれています。
あの肉体の苦痛の下にある宮田を其時は大変人情的な私に堪えなく見えたのに、後からは自分の物になりさうに浮んだのだつた。皆散じた後にゾツクリ汗にぬれた肉を負ふて階を下り、冷水浴場に待つてゐて又腕にしつかり抱へて帰つたのが一層忘れられない者にした。
(T5.7.22)
「後からは自分の物になりさうに浮んだのだつた。」…。
清野少年には後に精神的な癒しを求めていたのに対し、垣内に求めていたものは全然違うことが分かります。
垣内はお前とちがつて上級生をよく知つてゐた。僕にいつでもゆるすといふ素振りを見せていどみ、却つて僕はどぎまぎしたものだ。
(「少年」)
と「少年」にも書かれていますので、垣内側からも何らかのアプローチがあったものと思われます。小悪魔…(*´-`)
何時かお前の来学期から稲葉先生か校長先生のもとに奇寓するかも知れんと聞いた時お前の為に大変よい事だと思つた
(「大正五年 ノート ニ」)
とあるので、退学しなくても寄宿舎から垣内が居なくなり二人の関係性は変わっていたかもしれませんが、もし退学していなかったら清野少年との蜜月も存在しなかったのではないかと思います。
「少年」の主人公が垣内になることは無かったと思いますし、そもそも「少年」は書かれなかったでしょう。
あと、小悪魔垣内に関連しそうな文を一つ↓
Nさんが二室に夜這ひに行つたのでなど云ふ件もたつたさうです
I君は思出すやうな調子で「二室には誰がゐたいな うんそう/\Mが居た/\と云ひました
もしも室長に這いこんでみつけられたらなど云ひあつてゐます
M君は其時は一年だつたらうと思はれます 今も私をそゝのかしてゐます このあいだ四年と三年とよつて下級生をしかりつけた時にN君がMをなぐりつけてゐるのなどを見て私には想像が起ります
もしもふられたのでないかと
(「大正四年 ノート 一」)
アルファベットなので確証がありませんが、このM君が宮田=垣内なら、
・「今も私をそゝのかして」=川端先生に対して何らかのアプローチをしていた。
・上級生から狙われたり殴られるような少年だった。
・川端先生が四年生の時に一年生。
などなど色々合致してそうな気がします。(最近コメントを沢山下さるSei様のご指摘でこの文に気づきました。Sei様、ありがとうございました!)
垣内が先輩達から制裁を受けた原因は、「補巻一」からの断片情報をつなぎ合わせると垣内の生意気な態度が原因だったのではないかと思います。
上にも引用した手紙の草稿の
この一学期はお前の態度や性行は決して何人にも好ましく思はれた事のないのは確かだ(中略)お前の性質は今の上級と下級との関係にある時の寄宿舎に通じないといふ事を考へてくれ
(「大正五年 ノート ニ」)
という部分が分かりやすく物語っているように思います。
ちなみに、
あの当夜今里森田行田がなぐられた
(大正五年 ノート ニ」)
とありますので、この時には垣内一人だけが制裁を受けた訳ではなさそうです。
また、「當用日記」の記事を書いたときには見逃してましたが、
試膽会があつたそうで宮田竹内が一寸した所へ行つてきて威張り散らすのは其幼なさと調子に乗つてとび歩く所が嘔吐を催した
(T5.4.17)
寄宿舎でちょっとイキっていた様子が伺えます。
また、
室員の宮田を井上が注意すると云つた。(T5.6.23)
などとも書いてありますね…井上=大口で9割方確定してますので、大口は垣内にもちょっかい掛けようとしていたことが分かりますね(違)
生意気で小悪魔なこの後輩を、川端先生は卒業後も忘れておらず、大正7年の日記にまで名前が登場する始末です。
清野少年・同室だった小泉・前年度に仲の良かった後輩の名前は文通相手としてその頃の手紙の受発信欄にたまに出てきますが、垣内の名前は書いてないのでさすがに文通まではしていなかったようです。
しかし、会ってもおらず文通もしていないのに名前が登場するって相当未練があったんじゃないでしょうか…。
あと、垣内が出てくる作文で忘れてはいけない見逃せない一文はこちらです。
また垣内はお前と同じ二年生のくせに(一年落第はしてゐたが)お前をほしがつてゐたやうだつたから、そのためかもしれない。
(「少年」)
垣内が清野少年を狙っていたとしか読み解けずに相関図にも堂々と書きましたが、この一文しかそれらしき文章が無いので本当に謎です。
川端日記にもその証左となるような文章はちょっと見当たりませんでした。
ところで、最初の方に触れた大宅壮一先生は中学時代の日記が出版されているので、同級生なら万が一でも小笠原とか宮田とか「少年」の登場人物の名前が出てこないかと「大宅壮一日記」(中央公論社、1971)を最近借りました。
いや、大正6年運動会のバスケットボールの試合で、大宅先生と杉山が一緒のチームで清野少年と対戦していたらしいことが判明しましたので(こちらの情報源もSei様からです🙏本当にありがとうございました!)、何か書かれていないかと気になりまして…。この運動会の日の日記には特に何も気になる記載はありませんでした…残念。
川端日記とは関係ないところではありますが、最後に気になったところを引用して終わりたいと思います。
昨日のランニングの結果を発表せらる。
一万米 五年 山本英君 四十九分(一着)
五千米 三年 谷池君 十九分四十五秒(一着)
同 二年 竹内君 ニ○分十五秒(四着)
同 ニ年 宮田君 ニ六分五秒(九着)
(p.164)
大正5年5月4日の日記なので、二年の時です。学年に同じ名字の人間が何人も居たかもしれないので違うかもしれませんが、もしこの竹内→杉山、宮田→垣内なら胸熱です。
まだパラパラとしか見てないので「少年」の登場人物と同じ名字はここにしか気づきませんでしたが、また何か面白い発見があれば改めて書きたいと思います。
以前の記事のまとめみたいな感じになってしまいましたが、今回はこの辺りで。
今後は小泉と杉山、大口についても同じような感じでまとめたいと思います。
つい最近、こちらもちょっとだけ追記しましたので良かったら併せてご覧下さい↓
清野少年のその後(川端康成「少年」㉓) - うみなりブログ。(※新たに判明した清野少年の経歴をちょっと追記しました。)
「少年」の学校生活(川端康成「少年」㉔) - うみなりブログ。(※四十ニ畳の広過ぎる部屋や寄宿舎生活について書かれている文章を「川端全集補巻一」から新たに引用しました。)
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