うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

現下石濱一人の如し①(川端康成と石濱金作⑨)

一高時代からの親友、「なにをするにもいつしよ」で大学の学費まで仲良く一緒に滞納していた二人(上林暁先生「上野桜木町」参照)、川端康成先生と石濱金作先生の関係を語るシリーズの⑨回目です。

また川端全集とかから見つけてきましたので、色々二人の関係を考えていきたいと思います。

前のナンバリングをご覧になってない方はこちらのリンクから探して下さい。↓

川端康成関連インデックス - うみなりブログ。

BL・同性愛的な話題が混じります。以下お気をつけ下さい。

 

 

とりあえず、仲良くなったばかりの川端先生と石濱先生が1ヶ月の間にどれくらいの頻度で行動を共にしていたかを大正7年初めの川端日記から割り出し、パーセンテージで表してみましたので、初っ端から申し訳ございませんが見ていただけると嬉しいです。

大正7年1月
58.3%

大正7年2月
54.5%

「石濱先生と何らかの形で行動を共にしていることが読み取れる日記の回数÷1ヶ月間の日記の回数」で計算しましたので、同一日に二回以上登場する場合にも一回でカウントしています。また、名前が書いてあっても行動を共にしていない日はカウントしていません。(例・講演会に一緒に行く予定だったけど、行けなくなった。)

内訳としては、散歩のち本屋(古書店)に行く、純粋に散歩に行く、雑談する、図書館に行く、といった過ごし方をしています。

体感的には70%越しているような気がしたので思ったより少ないです。ちゃんとカウントもせずに以前から散々「毎日のように日記に登場している」と書いてすみませんでした。毎日ではなく、概ね二日に一回の登場でした。これからは「二日に一回のペースで日記に登場している」と書きます。

大正7年は2月までで大正8年の日記はなく、大正9年以降の日記では鈴木彦次郎先生や三明永無さんが大体一緒に行動していたり、月辺りの日記の日数が少なかったりと、純粋な石濱指数が割り出せませんでした(石濱指数って何だ…)。

 

川端先生と石濱先生は、一時期は「なにをするにもいつしよ」なくらい仲が良かった友達なのですが、ただ仲が良かっただけでなく、

 

川端←石濱…憧れが多く含まれている好意+独占欲

川端→石濱…依存心、嫉妬心、好意その他もろもろ含まれる複雑な感情

 

という重たい感情をそれぞれ有している、共依存的な関係でもあったと私は考えています。

 

今回はそんな二人の関係の一番のハイライトになりそうな大正11年4月の川端日記、

 

中学の友片岡末藤井上欠田清水小笠原山口等と今日心に殆無交渉なる感慨なきを得ず。現下石濱一人の如し。鈴木とも遂にある点に止りたるのみにて、しかも当今稍離れたる如し。三明を懐かしく思ふ。(大正11年4月4日)

 

という文章に焦点を当てて見ていきたいと思います。

この文章が、この時期の二人の関係を考える上でかなりのポイントになるのではないかと個人的に思っています。

先程書いたようにお互いがそれぞれ重たい感情を有しているせいか、この時期の二人の関係がちょっと歪なように感じた為、書きながら色々考えを纏めたいと思います。

 

前後の文章を省いているのでこの文章だけだとよく分からないかもしれませんが、伊藤初代騒動の後の日記で「友人が今は石濱しか居ない」みたいなニュアンスで書かれています。この時期にはもう小笠原さん(「少年」の清野少年)とも「今日心に殆無交渉」なんです。

仲良し四人組の鈴木彦次郎先生や三明永無さんとは一体どうなってしまったのでしょう?

多くの人と、よい加減に殆無交状態に入れるを思ふ。千代がことにて多くの人と関係異りたるを思ふ。(大正11年4月3日)

とあるので伊藤初代騒動が原因でちょっと距離が開いてしまったのでしょうか?

とりあえず、そんな時期にも石濱先生とはずっと友達であるという認識なんですよ。実際に日記を見ていると他にも交流のある人は沢山居るのですが、こうやってあえて「友」と書かれている意味は深そうです。

 

で、二人の関係が歪に感じるというのは、この前日の4月3日の日記のせいです。

 

石濱空腹を云ふ。我もいらいらす。彼めそめそす。少し腹立つ。彼金を持つてゐたこと殆どなきに厭だと思ふ。吾なければ彼なきに等しき此頃なれば、不愉快を聞くは不愉快なり。(中略)十一時過ぎ、雨落つ。小止みに彼かへる。泊れと云ひしも晩飯を食ひたしと。(大正11年4月3日)

 

一体どうしちゃったの…(;´д`)

ちなみにイライラしながら空腹の石濱先生を置いて一人で夕食を食べています…(;´д`)

えぇ…?(;´д`)

 

とりあえず、石濱先生は大学時代に随筆「貧乏」(大正12年7月『新思潮(第六次)』)を書くくらいお金に困っていた様子で、そんな石濱先生がしょっちゅうお金を持たずに遊びに来ていたことに苛立ちを覚えているようですね。

夕食等を奢ることが度重なった為に嫌になってしまったのかなとか勝手に想像を巡らしてみましたが、金銭問題は昔も今も人間関係に影響を与えますね。

あと、石濱先生は第六次『新思潮』の最初期から川端先生含めて仲間の作品を遠慮なく批評していたみたいなので、そういう部分からも苛立つような何かがあったのかな、と予想されます。

 

しかし、この日記で私が一番ヤバいと思うのは、「吾なければ彼なきに等しき此頃なれば、不愉快を聞くは不愉快なり。」というちょっとモラハラテイストな発言でも、石濱先生を放置して一人でご飯を食べているところでもなく、ここまでイライラしながらも石濱先生に泊まることを要求し、自分とまだ一緒に居て欲しいと願っているところだと思います。

 

文章を読む限りでは、かなり石濱先生に依存しています。

 

石濱巴里に寄り、琴子に金を借らんとせるも琴子持たず。十一時前仕方なしに赤門前にて別る。女に別れたる如く淋し。(大正11年4月2日)

 

という記述も見られます。女に別れたる如く…(*´-`)

 

自分と一緒に過ごして気を紛らわせてくれるなら、石濱先生じゃなくても誰でも良かったのかもしれません。

しかし、この時期は「現下石濱一人の如し」です。毎日のように遊びに来てくれる友達は石濱先生しか居なかったのではないかと思われます。

自分と一緒に過ごしてくれるなら誰でも良かったのかも知れませんが、しかし、この時期の川端先生の心の隙間を埋めていたのは、石濱先生で間違いなさそうです。

 

 

さて、石濱先生は、この時期のこの関係をどのように感じていたのか。

長くなりそうなので次回に続きます。

 

現下石濱一人のごとし。②(川端康成と石濱金作⑩) - うみなりブログ。

 

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