うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

大正8年夏の清野少年(川端康成「少年」㉗)

もう、「あけましておめでとう」とかの時期じゃないんですが……(白目)

今年初のブログ更新です…(白目)

皆様今年もどうぞ宜しくお願いします。

今後も忘れた頃に出没すると思うので、良かったら忘れないでいてやって下さい…。

 

さて、今回は川端先生の「少年」https://amzn.to/3VerSDZに関してちょっとした発見があったので、せっかくなので書きたいと思います。

 

 

 

川端先生が中学卒業後に清野少年と実際に会ったのは、大正7年夏と大正9年夏の2回なのですが、

その前年の夏にも、私は嵯峨を訪ねたのだったが、元の室員は浜寺へ競泳に行った留守で、日が傾くまで家で昼寝をさせてもらって、会えずに帰った。(「少年」新潮文庫p.61)

とあります。大正9年夏の思い出を起点に書かれている箇所ですので、その前年・大正8年夏にも会いに行っていることになります。

これが具体的に何日なのかは「川端康成詳細年譜」(勉誠出版、2016年)https://amzn.to/49Qd82mにも記載されていなかったのですが、「中学競泳 浜寺 大正8年」とかで検索したら特定出来るんじゃないかと思って探しましたら、割とあっさり特定出来ました。

 

大正8年7月30日です。

水曜日です。

ちなみに仏滅です。

 

今回確認したのは国立国会図書館デジタルコレクションの「運動年鑑 大正九年度」(朝日新聞社1920年)です。

大正九年度」ですが、前後の年も確認したところ「大正八年度の競泳」はこちらに掲載されていました。

 

中等學校競泳大會 大阪毎日新聞社主催の第六回同大會は七月卅日濱寺に於て擧行したり

 

ということで、川端先生は大正8年7月30日(水)に嵯峨に行ったことになりそうです。

 

林武志先生が清野少年のモデルである小笠原義人さんにインタビューした内容(※小笠原さんの写真付き)が含まれている論文「「伊豆の踊子」成立考」(「川端康成研究」(桜楓社、1976年))

https://amzn.to/4a82vb8によると、この時小笠原さんは

水泳の試験(コーチになるための)を受けに行っていたためで、のち母校の水泳指導もし、その時の教え子の中に後年のオリンピック選手高石もいた(直話)

とのことです。

この大会とは別の"試験"が浜寺で開催された可能性もゼロではないのですが、7月30日の大会は川端先生が書いてる"競泳"とはマッチしてますので、多分これなのではないかと思います。

ちなみにこの年の第一高等学校は7月11日から夏季休暇に入っていますので、川端先生は間違いなく夏休み中です。(「第一高等学校一覧 自大正七年至大正八年」(第一高等学校編)参照)

 

「運動年鑑 大正九年度」の「中等學校競泳大會」の結果には上位者の名前が書いてありますが、残念ながら茨木中学の生徒の名前は見られませんでした。

しかし、しかしですよ…私は「運動年鑑 大正十年度」も見ました。

その恐るべき結果をご覧下さい。

全國中等學校競泳大會(大正9年8月15日、濱寺海上にて開催)

・百米一着 茨木中學 入谷唯一郎

・百米背泳一着 茨木中學 石田恒信

 同三着 茨木中學 坂倉巌

・ニ百米一着 茨木中學 入谷唯一郎

 同ニ着 同校 高石勝男

・三千米突リレーニ着 茨木中學 松上龍太郎 入谷唯一郎

小笠原さんのインタビューに出ている高石さんの名前もありますね。前年に入賞者が一人も居なかったのが嘘のようです。

 

え…?

小笠原さん、この方々のコーチだったんですか…?

水泳ガチ勢どころの騒ぎじゃないじゃないですか…((((;゚Д゚)))))))

 

茨木中学は川端先生在校時に工事してプールを作り、戦前は「水泳王国茨中」の異名を持つほど水泳が盛んだったようです。でも入賞者0の大会からたった一年で上位総なめって凄過ぎませんか…?

 

 

 

いやはや、国立国会図書館デジタルコレクションがかなり詳細に色々検索出来るようになったので、今回面白い発見が出来ました。今後も何か見つけたらまた書きたいと思います。

では今回はこの辺で✋

 

 

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