うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

日本近代文学館「川端康成展」感想と大正5年川端日記メモ

「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展―人を愛し、人に愛された人―」

ということで、2022年4月2日(土)〜6月11日(土)まで開催予定の川端展へ行ってきました。

川端展気になるけど、どんな感じなのかな〜という人向けに感想を書きたいと思います。

とりあえず川端康成先生が気になる人は行って損はありませんので、是非会期中に行きましょう!(ダイマ)

行きたいけど遠方で行かれん!という人は日本近代文学館さんのウェブショップで図録が通販されていますので、売り切れる前に是非買いましょう!(ダイマ)

日本近代文学館さんは初訪問です。

私は中部地方の田舎に住んでいるので、朝5時に出て高速で片道4時間くらいかけて向かい、東京タワーとかも見つつ夜10時に帰ってくるという、日帰り弾丸ツアーで行って参りました。

 

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朝9時半過ぎに着いて真っ先に川端展へ行き、11時過ぎくらいまでじっくり堪能しました。

今回、手紙・弔辞類が沢山展示されていたので、それらを隅から隅まで読もうと思ったら2時間以上は要りそうです。

とりあえず解説に書かれている部分は丁寧に印を付けてくれていましたので、現物はその部分と解説を併せてじっくり読んで行っても1時間半くらいでかなり堪能出来ました。

全体的に、川端先生は読みやすい字とそうじゃない字の差が激しいな〜という印象が強かったです。

葬式の名人コーナーは、とりあえずもう見ていて切ないですね…😭

片岡鉄兵先生の弔辞を書いている時の日記のパネルが個人的に印象に残りました…(メモしてこれば良かった…)😭

 

第1章 若き日の体験――生い立ちと創作の原体験

第2章 小説の実験室――掌の小説と「文藝時代」

第3章 作品の成熟――新進作家への眼差し

第4章 作品生成の魔術――「雪国」

第5章 証言者の眼――「名人」

第6章 一つの転機――「故園」「哀愁」

第7章 戦後の社会に生きて――「山の音」「みづうみ」から「眠れる美女」へ

という構成で順番に展示されていましたが、私がやはり一番見たかったのは中学〜一高辺りの展示です。

という訳でその辺りは最初にじっくり見て、最後にももう一度じっくり見ました。

「少年」の初出誌とか生原稿とかもあり、大満足です( ´ ▽ ` )

そして、「川端康成全集 補巻一」にも「少年」にも収録されていない大正5年の日記が三日分展示されていましたので、執念で全文メモしてきました。(写真撮影厳禁です)

丁度「少年」と丸被りの時期です。

あまり他の観覧者が居らず、展示前に陣取っても問題ない好条件だったのもありメモ出来ました。

とりあえずせっかくですので、こちらにも転記したいと思います。

多分写し間違いが多々あり、改行も間違っています。

旧漢字は現代の物に直しました。

「※」はその場で判読出来なかった漢字です。

何か問題があって近代文学館さんに怒られましたら削除します。

 

①大正5年9月18日日記

「九月十八日晴。

目覚しがならなかつたので寝過し、小使いが起しに来てくれる。

Yの寝衣なりで起床の鈴を振りに下階るのと共に冷水浴場に行く。

月が真上に白い。

七時四十分登校。

体操の時間は無断欠課して「※」の畳に腹這ひ「ふらんす物語」読む。

今日も朝から学校に出て何を得て来たのか」

 

1枚のみの展示なので、途中で切れています。

「Y」は山口=「少年」内の小泉ですね。

「※」は「金」に見えたのですが、「金の畳」って何…?よって違う漢字だと思います。

 

(※2022.7.3追記

すみません、これは「少年」に載っている日記でした!!

清野少年が出て来ないので熟読しておらず(正直者)、内容をキチンと覚えていませんでした…お恥ずかしい限りです…。「少年」によると、「金の畳」ではなく、「舎の畳」でした。)

 

②大正5年11月21日

「はじめに  康成

江島修さんの「受難者」を四百頁まで読んできた。これほど私の心臓をしつかりさし、おごそかにし、つゝましやかにし、希望に燃やしてくれた創作は貧しい読書のうちに見当らない。

やつてみやうやつてみやうと思ひながら、何一つまとまつたものをかかうとはせぬ私。怠性は大変鞭たれた私は今貧しいながら自分の生活をのこしたいと切望し、筆をとるべく」

 

これも1枚のみの展示なので、途中で切れています。

 

③大正5年12月31日

「ゐることをどうしても否み難い。随分強い言葉は放ち続けたけれど、もう強かつた自信は礎からゆらいでしまつた。精進努力!古の言葉はいつでも自己幻滅の嘆きの後に繰り返した言葉だつたけれど、今はそれも可能かと疑を抱くようになつた。五年はみじめに私の子供らしい夢をくつがへした歳だつた。家もなく金もない私の生活は「※ 」であらう筈はない。この年の初めには矢張り色々と読み考へ書いてみる希望を持つてゐた。夏には文章世界、新潮、秀才文壇と可成り懸賞にも応じてみた。そしてそれ等は何の反響もなしに自己の不才を三訝したに過ぎなかつた。それからふとした事から書いたものが活字になつたのも青「※」の頃から黄「※」の頃までだつた。同級生の清水正光君が茨木の京阪新聞に「私生活」を連載してゐるのを知つて、好奇心に誘はれて社に記者を訪ねた。そして最初君島子春の名で「H中尉に」の活字になつたのを学校の「※※」に「※」けた「※」は心踊つた。次に短編「「※※」の夜」「紫の茶碗」其他続々あらはれたのは」

 

2枚ありましたが、途中から始まり、途中で終わっています。

 

日記は以上です。

あと、個人的に気になった川端先生が一高一年の時の「一高寮名簿」をメモ出来る範囲内でメモしてきました。

川端先生は第十三番室らしいので、同室のメンバーの名前と出身中学をメモし、余力があったので第十二番室のメンバーの名前だけメモしました。

本当は住所なども書いてありましたが、これだけで精一杯でした。

 

西

第十二番室

原彪之助 塚田正己 高田保廣 杉本勝次 内藤寛一 日高第四郎 川崎芳熊 高橋一郎 横田巌 白石資明

 

第十三番室

松岡正義(府立一中)  

島村鐵也(岡山中)

川端康成(茨木中)

白須宗雄(府立四中)

菱沼勇(広島高等師範学校附属中)

佐伯壽(府立四中)

 

石濱金作先生と鈴木彦次郎先生は2年の時に初めて同室になった筈なので、やはりこの時には名前は無いですね。

ページの都合上、多分十三番室にはまだメンバーが居る筈です。

十二番室はフルメンバーが書いてありましたが、総勢10人…。多くないですか…?と思ったら定員は12人だったかもしれないという情報を入手し、戸惑いを隠せません。

「少年」内で確か"一高の寮は中学の寄宿舎と勝手が違って嫌だった"みたいに書かれていましたが、4人部屋だったのが10人以上の部屋になったら無理も無いと思います…。

 

(2022.5.23追記)

石濱先生の回想に、一年の時の寮について詳しく書いてあったのに流し読みしていたので追記します🙏💦

私(※石濱)の部屋は大きく、十六人いたが、彼(※川端)の部屋は小さく、六人切りであつた。

石濱金作「無常迅速ー青春修行記」(『文藝読物』1950年5月号)より

ということで、川端先生の部屋はこれでフルメンバーみたいです!

つーか、12人どころか16人押し込められている石濱先生の部屋(第十五号室)がヤベェ…。

 

なお、鈴木彦次郎先生によると、

ぼくらの入寮した翌年から、所謂、旧三層楼の東西寮は壊され、ぼくらの三年になつた時、新しい東西寮と、和寮明寮が新築されて、六寮は、八寮に増されたのであつた。

鈴木彦次郎「六寮から八寮へ」(『橄欖樹 第2輯』 第一高等学校校友会、1935年)より

らしいので、三年生の時には大分待遇が改善されてそうですね!

(追記おわり)

 

とりあえず特別にメモしたものは以上です!

没後50周年という節目で開催されているので、今回を逃したらあと数年は開催されないのではないかと思います。

気になる方は是非日本近代文学館さんに足を運んでみて下さい。

今年の10月からは神奈川近代文学館さんでも川端展が開催予定ですので、私はそちらにも行きたいと思っています。

 

あ〜…、そういえば今回は日本近代文学館さんの閲覧室には時間の都合上寄れなかったのでちょっと残念でした…。手に取って見られるかどうかは分からないのですが、第六次『新思潮』の現物がちょっと見てみたかったです…。

 

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