うみなりブログ。

アラフォー腐女子が、BL要素のある文学作品をイラスト付きでゆるく紹介します。日本近現代文学が中心。BL・同性愛的な表現が苦手な方はお気をつけ下さい。

「少年」の学校生活(川端康成「少年」㉔)

「少年」ネタが続いていてすみませんが、川端康成先生の「少年」㉔です。

「少年」の舞台の中学校(現在は高校)の百年史を入手してしまったんで、「少年」の時代に関係しそうなアレやコレをアレコレ紹介したいと思います。

 

「少年」の全ての始まり↓

川端康成「少年」① - うみなりブログ。

前回↓

清野少年のその後(川端康成「少年」㉓) - うみなりブログ。

 

 

今回入手したブツはこれです。

自分の母校でもない学校の百年史…。

このような本まで入手するとは、自分でもとうとう辿り着く所まで着いたような気がしないでもないです。

全1271ページ。

あのね、もう、普通に鈍器です。

高い所に置いておいて地震の時とかに落ちてきたら、普通に死因がコレになりかねないので、ちゃんと低い所に置いてあります。

 

Amazonではめちゃくちゃお高いんですが、日本の古本屋ではもっと安価に流通していましたので、皆様が想像するよりも遥かに安価に入手しています。

いや、図書館に置いてあるならいつものパターンで借りて済ますんですが、県内の図書館が県立図書館まで含めて所蔵なしという有様の超レア本だったので仕方なく購入しました。

基本的に複写物も含めて一般人が公共図書館で賄える範囲内でしか語らない(※)、それが当ブログです。なので、今回は申し訳ございません。代わりに色々ご紹介したいと思います。

(※)…基本的に公共図書館だけでは手に負えない石濱金作先生の作品は別…グギギ…ここまでレアだとは思いもよりませんでしたぞ…石濱先生…グギギ…_:(´ཀ`」 ∠):

 

ご紹介と言っても、私は学校の沿革とかにはあまり興味がないので(こんな奴が百年史を入手して何か色々本当にすみません…(大阪の方を向いて土下座))、川端先生達が当時どのような学校生活を送っていたかを妄想する材料を投下するだけです。

学校の沿革に興味がある方は、学校のホームページにも載っていましたのでググって下さい。

 

とりあえず「少年」は寄宿舎が舞台ですので、寄宿舎で川端先生達がどのような生活を送っていたか見てみましょう。

 

○寄宿舎の設備

木造二階建てで南北二棟からなっていたそうです。

図がありましたので、説明のために引用させていただきます。

「茨木高校百年史」(大阪府立茨木高等学校校史編纂委員会、1995年) p.126

 


↑上記の平面図を拡大したものです。

川端日記の内容から判断すると、この縦に長い部屋が川端先生が大正5年4月から1年間過ごした第五室だと思われます。

自修室

寝室

静修室

新聞雑誌閲覧室

和楽室

炊事場

浴室

他、舎監室、応接室など

 

から構成されていたみたいです。

詳しい説明を読んでいる時に気になる記述を見つけました。

「少年」ファンが一番気になる、川端先生と清野少年達が生活した寝室についてです。

北棟の上下に一○室。四二畳の畳敷で二か所の押入があり舎生の荷物や夜具を収納した。なお大正四年(一九一五)四月からは静修室(自習室も含むと思われる)の閉鎖にともない、寝室の畳を半分あげて寝室と静修室兼用となり、一室に四名が生活した

 

サラリと書かれていますが、四二畳⁈

42畳⁈

よんじゅうに畳ですか⁈

柔道大会でも開催するんですか⁈

10部屋あるんですが、10部屋全てですか⁈

寄宿舎の総面積いくつになるんですか⁈

 

いきなり大混乱です。

 

何かの間違いの可能性がすこぶる高そうだなぁと思って色々考えたり調べたりしました。

↓読むのが面倒な方は「※」まで飛ばしても全く問題ないので飛ばして下さい。

現代よりも畳が小さかったとか、ここでは畳が「四十二」枚という意味ではなく「四二」で何か別のサイズを表す可能性もあるような気がします。(Twitterでご意見を募ったら、奥から畳を4枚縦に並べて、手前に2枚横に並べたからこういう表記になるのでは…というご意見を見かけました。)

2=8畳も考えましたが、寝室の写真ではどう見ても8畳以上ありそうです。

説明文に「寝室の畳を半分あげて寝室と静修室兼用となり」とあるので、寝るスペースがかなり狭くなりそうです。また、「広さ約二四畳」の自修室(7〜8名で使用)と同サイズになるのか?とかそこら辺も気になりますし、上に載せた平面図では明らかに自修室より寝室の方が大きいです。

※色々考えた結果、案の定何も分かりませんでしたが、他のページに答えに近いものが載っていました。

「茨木高校百年史」(大阪府立茨木高等学校校史編纂委員会、1995年) p.1195

校舎と一緒に書かれた平面図です。小さく縮尺が書いてあります。

この縮尺に従うと、2階の寝室は一部屋辺りおおよそ五間×三間はあることになります。

(一間は約1.82mらしいので、計算すると約50㎡=約15坪=約30畳になると思います。簡単に大体の値を計算したので色々間違っていたらすみません。)

教室のサイズが20坪らしいのですが教室もこの平面図では寝室と同じくらいのサイズで書かれていますので、とりあえず教室並の広さがあったことが分かりました。実際に寄宿舎が大正13年に廃止された後は教室として使用されたそうです。

何でこんなに広いんだろう…と疑問になりますが、最盛期の寄宿舎には100人くらいの寄宿生が居たそうで一部屋に10人居住するなら割と妥当な広さなような気がします。

 

という訳で、川端先生は無駄に広すぎる部屋で清野少年とイチャコラしていたことが判明いたしました。

 

さて、次は毎日どのような生活をしていたか覗いてみましょう。

 

日課(四月)

5:30 起床

5:50 朝人員検査

6:00 朝食

7:00 診察

7:40 出舎

16:30 夕人員検査

16:40 夕食

17:30〜18:20 自修第一

18:30〜19:20 自修第二

19:30〜20:20 自修第三

20:30 就褥(就寝)

21:00 消灯

 

起床時間は

5〜7月→5:00

12〜1月→6:30

という風に時期により異なり、他の日課もそれに応じて異なっていたそうです。

 

早くて5:00…起床時間がやや早いような印象ですが(我が家では家族全員爆睡中の時間)、授業が始まる時間もめちゃくちゃ早いのです。

 

大正5年当時が載っていなかったので、一番近そうな大正2年当時の始終業時間。(日付は時間が変更になるタイミングです。)

6/1  7:20〜13:40

9/15  7:50〜14:20

10/16  8:10〜14:25

11/17  8:35〜14:40

 

冬の8:35〜は現代とあまり変わらないですが、6月からの7:20〜がめちゃくちゃ早いです。もう一度書きますが、授業が始まる時間です。百年史を編んでいる人も解説しながら困惑するレベルの早さです。

しかし終わる時間もめちゃくちゃ早いので、ちょっと良いなぁと思います。

 

7:00〜診察と書いてありますが、医師による診察は実際には週一回だった模様です。

朝に寄宿舎を出たら、舎監の許可がなければ昼食時以外に寄宿舎に戻ることが出来なかったようです。

そして、授業が終わってから夕方の人員検査までが自由時間で、外出をしたり、柔剣道や相撲などのスポーツをしたり、入浴もこの時間に済ませていたそうです。

また、夕食が終わった後も自由時間で、その後には沢山の自修時間…。

皆静かに勉強し、たまに舎監も見回りにきていたそうなので遊びたい盛りの子達には大変そうです。

 

(※2023.1.12追記)

川端康成全集 補巻一」から寄宿舎生活と部屋に関する記載を見つけましたので引用します。

六時の起床後九時半の消燈に私達は規則正しい生活を清々しいルームの内に送つております 朝は起床朝礼後に南運動場(田舎の中学ですから開く心地よくあります)をまわつて堤防に登り河内の山を登る太陽のニコ/\顔に頭の細胞をあらひ食事 自習一時間 登校 帰舎後五時までは随意 五時夕食 六時過から九時半まで自習が十五分位の休をおいて三時間 次に岡田式静座法 消燈 就寝といふ順序になつてゐます 就寝後は四十畳の広間に僅か四人なので大変ひろく毎夜まどのへに床をよせて月や星を仰いで詩のおもひを作つております(中略)閲覧室には図書の他雑誌は実業之日本中学世界学生日本少年があり新聞は大阪毎日と大阪朝日とがあります

(「大正四年 谷堂書簡集  二」p268より)

 

「就寝後は四十畳の広間に僅か四人なので大変ひろく」…部屋の広さも当たっていました🙌(※追記終)

 

 

○食事

明治37年当時では、

米八合に麦二合を混ぜた麦飯であり、献立は一週間ごとに作成されて舎監と校医の検閲を受けていた

そうです。

献立はこんな感じ↓

「茨木高校百年史」(大阪府立茨木高等学校校史編纂委員会、1995年) p.128

大正時代には麦飯ではなくなったそうですが、かなり質素な食事だったみたいです。

食堂では下級生が用意し、部屋ごとに座って食べていた。

と書いてありましたので、川端先生と清野少年はご飯も毎日一緒に座って食べていたんですね。

ちなみに寄宿舎を抜け出して飲食すると罰せられたそうです。

川端日記によく間食のことが出てくるんですが、自由時間に買いに行ったものを後で食べていたのかなと思います。

 

日課以外の寄宿舎の行事

・月二回、土曜日の夜に談話会と称して和楽室に集まり、演壇に交代で立って弁論を行ったり、二手に分かれての討論会ももたれた。

・帰省は月に一度、第四日曜日と決まっており、願い出た者のみ前日の土曜日から帰宅が許された。

・季節によっては観月会などの行事があった。

 

○制服

川端先生が通っていた頃は、ザ・書生みたいな和服の制服です。

↑図解するとこんな感じです。字が汚い上に見えづらいかもしれません、すみません。

大正5年当時に和服の制服だった中学校は、全国でもココと高知県の2校の計3校しかなかったらしいです。

個人的には古風でめっちゃ良いなと思いますが、実際に通っていた生徒からは不評だったみたいで数年後には洋服になったらしいです。

とりあえず、ポイントなのが裸足だと思います。校内では病人以外オールシーズン裸足を強いられていたらしく(ちなみに病人も教室では裸足を強いられる)、冬とかめちゃくちゃ寒そうです。

通学時は下駄とか草履は許可されており、また「少年」内の清野少年からの手紙にも

長い廊下の端に麻裏草履の音が聞こえると、いつも、あなたではないかと思う。

(「少年」(新潮文庫、2022年) p.39)

と書かれているので寄宿舎でも履き物は許可されていたのかな?と思います。

 

↑こちらは体操服。

兵式体操というのが時代を感じさせます。同一と見做していいのかが分からないのですが、後の軍事教練的な授業だと思います。調べてみたら大正2年時には全国的に「兵式体操」ではなく「教練」に名称が変更されたという情報も見付けたのですが、大正4年頃の川端日記には「兵式体操」と書かれています。

川端先生は、体操服を用いるありとあらゆる授業や作業をサボりまくっていた可能性がありますので(ソースは川端日記。百年史でも「川端康成は欠席していたようである。」とか冷静にツッコまれています。)体操服が最上級生にしては綺麗だったんじゃないかと思います。

そしてその体操服のお下がりを「まだ十分着られるから」とか言って卒業の時に清野少年にあげていて欲しいです。(妄想)

 

○学級数・生徒数

大正5年度

級数=各学年(1〜5年)3クラス 全15クラス

生徒数=1年131人、2年104人、3年90人、4年74人、5年88人 全487人

寄宿生の数=40人(全生徒の内、8.2%)

 

○学費(年額)

大正2年度新入生の例

検定料 2円

授業料(何故か居住地によって違う) 郡部在住者24円、市部在住者27円、その他36円

教科図書 5円

学用器具及び消耗品 7円50銭

被服費(帽子体操服脚絆等)   3円90銭

有信会費 1円20銭

合計 郡部在住者43円60銭、市部在住者46円60銭、その他55円60銭

2年生以上には撃剣柔道用具費、4年生と5年生には修学旅行費が更に掛かります。

 

寄宿舎に掛かる費用(年額)

食費 80円(炭、油、入浴費を含む)

舎費 1円(食器その他器具)

諸費 19円(郵税、洗濯、石鹸、シャツ、手拭、足袋、風呂敷の類)

合計 100円

 

当時の金額については以前第六次『新思潮』① の記事の時に書いた奴がありますので、こちらにもコピペしておきます。

「当時の百円がどれくらいの価値だったのか調べましたが、現代の530〜5000倍くらいの価値だったという書いてあるサイトによって幅が大きい検索結果しか得られませんでした…。530倍なら5万3000円くらい、5000倍なら50万くらいということになりますな…。ちなみに大正7年の公務員の初任給は70円くらいらしいです。」

 

これを踏まえると、寄宿舎に入れたのは比較的裕福な家庭のお子さんなような気がしますね。

 

今回は以上です。

「少年」の解像度を上げるのにお役に立てたなら幸いです。

解像度が上がったところで「少年」の同人誌を作成しようと思う人が出現しないかという下心満載でお送りしました。

百年史から引用した画像以外は好きに使っていただいて構いませんが(一応ネタ元を何処かに明記していただけたら幸いです)、同人誌を出したという情報を当ブログまで是非ともお寄せ下さい。すごい勢いで買いに行きます🏃

いや、お前が同人誌を出せよ…という声が聞こえてきそうですが、そのうちこのブログの内容をちょっと加筆修正して纏めた同人誌でも出そうかなぁとかボンヤリと考えています。予定は未定です。

 

それでは、また「少年」㉕でお会いしましょう!(ネタはまだあります…)

 

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